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2010年7月6日火曜日

ルクレツィア・ボルジア

ルクレツィア・ボルジア(Lucrezia Borgia、1480年4月18日 - 1519年6月24日)は、ルネサンス期のローマ教皇アレクサンデル6世の娘。
政略結婚に翻弄されたヒロインとして知られる。
兄は軍人で悪名高い政治家でもあるチェーザレ・ボルジア。
他の同母の兄弟にはホアン・ボルジア、ホフレ・ボルジアがいる。

【生涯】
ルクレツィアは、ロドリーゴ・ボルジア(のちのローマ教皇アレクサンデル6世)とその愛人ヴァノッツァ・カタネイの間に生まれた庶子である。
修道院で少女時代を過ごす。父に非常に愛されていた娘だったという。


1493年、13歳でミラノ公イル・モーロの甥でペーザロ伯爵のジョヴァンニ・スフォルツァと結婚する。
しかし、ジョヴァンニと不仲のルクレツィアは、ローマに戻ってしまう。
父ロドリーゴは、ジョヴァンニは性的不能で結婚は無効と宣言したが、実際にはルクレツィアが幼い事を理由に、父が寝室を別にする事を命じたためである。
寝室を一度も共にしていない、つまり性行為をしていない結婚(「白い結婚」という)だと無条件に離婚・再婚できるため、これを狙ったものと思われる。
無論ジョヴァンニは非常に憤慨し、父親や兄との近親相姦の罪があるとしてルクレツィアを訴えた。この一連の騒動に嫌気がさしたルクレツィアは、1497年の6月、ドミニコ会修道院にこもってしまう。
しかし、そこでスペイン人従者のペドロ・カルデロンと恋に落ち、彼の子を妊娠してしまう。
兄のチェーザレはペドロが口答えしたことに激怒し、彼を殺してしまった。1498年の3月6日、ルクレツィアは、インファンテ・ロマーノを出産。この子供は、父親の戸籍に入れられた。


次いで1498年にナポリアラゴン家のアルフォンソ・ダラゴーナ(元ナポリ王アルフォンソ2世 在位1494-1495年の息子)と結婚する。
二人の夫婦仲は良かったという。
しかし1500年にアルフォンソは暗殺される。
兄チェーザレ・ボルジアの指図とも言われる。
当時の情勢から、次に手を結ぶ相手とルクレツィアを政略結婚をさせたいため、であったという(離婚はできないため。ただし「白い結婚」は例外)。

1501年、フェラーラの統治者エステ家のアルフォンソ1世・デステ(公爵、在位1505年 - 1534年)と3度目の結婚。
当時、フェラーラはルネサンスの文化が花開いた都市の一つであり、宮廷には各地から文学者や芸術家などが集まっており、ルクレツィアはサロンの女主人として優雅に振舞った。
彼女の従妹アンジェラ・ボルジア女官として着いて来ていた。
しかし、吝嗇家の傾向がある舅のエルコレ1世・デステと、浪費家のルクレツィアとは金銭感覚が合わず、彼女の大勢のスペイン人侍女達への手当てと、家計の費用を巡って議論になった。
あまりにも家計に関する議論が絶えないため、彼女がクララ会修道院にこもってしまったこともあるという。
詩人、ピエトロ・ベンボと浮名を流したこともあったらしい。
しかし、この程度の浮気は夫の顔を潰さぬ程度なら当時の社交界では大目に見られていたようである。
また、義姉のイザベラ・デステの夫マントヴァ侯フランチェスコ2世・ゴンザーガとも不倫関係にあり、このことを知ったイザベラは、ただ二人を軽蔑しただけだったという話もある。
二人の不倫関係の真偽の程は定かではないが、ルクレツィアとゴンザーガが親しかったのは確からしく、1504年に幽閉されたチェーザレ釈放の協力を、ルクレツィアがゴンザーガに頼んだこともある。

1502年にルクレツィアは妊娠したが、彼女の体調が悪いのを知ったチェーザレは、7月28日にミラノにいるフランス王を訪ねた後、変装して突然彼女に会いにやって来た。
9月5日にルクレツィアは女児を死産。その間も、ずっとチェーザレはルクレツィアに付き添い、物語や冗談などで彼女をはげました。

1503年に父アレクサンデル6世、1507年に兄チェーザレが死去。
ルクレツィアは1519年、6月に未熟児の女児を出産したが産褥熱にかかり、6月22日に教皇レオ10世に宛てて手紙を書いた後、6月24日に母子ともに死去した。

ティツィアーノもルクレツィアの肖像画を残している。

 
【人物】
ボルジア家には政敵が多かったため、ルクレツィアは父や兄と近親相姦を行っているという誹謗が生まれた。
無論、根拠のある話ではない。
19世紀に作られた歌劇「ルクレツィア・ボルジア」があるほか、ルクレツィアを題材にした小説なども多い。
しかし実際のルクレツィアは慈善や福祉に生きた女性であり、領民たちからも慕われていたという。


ルクレツィアの肖像として有名な絵画がある。
「右手に小花の花束を持つ女性」という構図で描かれているが、このような図式は明らかに当時の高級娼婦の肖像画の形式であり、ルクレツィアの肖像画ではない可能性が極めて高い。
彼女の肖像画として伝わっているが、その根拠も不明である。

2008年11月25日、オーストラリアのヴィクトリア国立美術館が、同美術館が所蔵していた作者・モデル共に不明だった肖像画が、ドッソ・ドッシによるルクレツィアの肖像画であると判明したと発表した(フランス通信社2008年11月25日)。

一般には、ルクレツィアは父や兄の政権闘争に翻弄された悲劇の女性と言う印象が持たれている。しかしながら、要塞都市・スポレートの長官を務めた記録が残っている事から、実際には芯の強い女性だったようである。

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