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2010年7月4日日曜日

エリザベート・バートリー

バートリ・エルジェーベト/エリザベート・バートリ(マジャル語:Ecsedi Báthory Erzsébet 、ドイツ語:Elisabeth Báthory von Ecsed 、スロバキア語:Alžbeta Bátoriová-Nádašdy 、1560年8月7日-1614年8月21日)は、ハンガリー王国の貴族。
史上名高い連続殺人者とされ、吸血鬼伝説のモデルともなった。
「血の伯爵夫人」という異名を持つ。
ちなみにハンガリー人の姓名の順は日本と同じため、マジャル語では旧姓のバートリが先にくる。


【家系】

バートリ家は16~17世紀当時トランシルヴァニア公国の中で最も有力な家門だった。
エルジェーベトはエチェディ(エチェド)=バートリ・ジェルジ (Ecsedi Báthory György)とショムヨーイ(ショムロ)=バートリ・アンナ(Somlyói Báthory Anna)の間に生まれる。
ポーランド王位に就いてバートリ家の権勢を最大限に高めたバートリ・イシュトヴァーン9世(ポーランド王としてはステファン・バートリ)の姪に当たり、当時のトランシルヴァニア公やハンガリー王国の宰相も従兄弟である。

有力者を輩出する一方、エルジェーベトの近親者には同性愛者(叔母)、悪魔崇拝者(叔父)、色情狂(兄弟)等と噂された者もいる。
エルジェーベト本人も幼いときから感情の起伏が激しく、エキセントリックな性格を有していたという。これは一族が財産及び権力を保つ為に血族結婚を繰り返してきた影響だとも言われる。


1575年、エルジェーベトは5歳年上のハンガリー貴族ナーダジュディ・フェレンツ2世(フランツ2世・ナーダジュディ)と結婚した。
フィレンツの父親はフェルディナント1世の治世でハンガリー副王を務めたナーダジュディ・タマーシュ3世(トーマス3世・ナーダジュディ)だが、エルジェーベトの方が高い身分にあったため、結婚後もバートリ姓を名乗った。
フェレンツは対オスマン戦争におけるハンガリー軍の指揮官の1人であり、英雄として知られていたが、同時にその残虐さでも有名だった。

この結婚により6人の子供(3男3女:András、Pál、Anna、Katalin、Miklós、Orsolya)が生まれた。
長女のアンナ(Nádasdy Anna)は、16世紀の対オスマン戦争の英雄ズリーニ・ミクローシュ5世の妻となる。
次女のカタリン(Nádasdy Katalin)はホモンナイ(ホモンナ)=ドルゲト・ジェルジ3世(ユライ3世・ドルゲト)の妻となる。


エルジェーベトはラテン語・ギリシア語などの読み書きもできる教養豊かな女性で、戦争で留守がちな夫に代わって城と数百ホルドの領地を含む荘園を管理し(1hold=1,600ネージセゲル=約0.57 ha)、諸外国に遊学する学生らの援助をした。

 
【残虐行為】

オスマン帝国との戦争により夫が留守がちの中、エルジェーベトは多くの性別を問わない愛人を持ち、贅を尽くすことと自らの美貌を保つことに執着したというが、夫婦仲は良かった。1604年に夫が亡くなると、夫から贈与されて彼女自身の所有となっていたチェイテ城(現在はスロバキア領)に居を移した。


召使に対する残虐行為は、夫が生きている頃から始まっていた(あるいは召使に対する折檻は夫から教えられた)と考えられているが、夫と死別後に一層エスカレートしたようである。
当初は領内の農奴の娘を誘拐したりして惨殺していたが、やがて下級貴族の娘を「礼儀作法を習わせる」と誘い出し、残虐行為は貴族の娘にも及ぶようになった。
残虐行為は惨く、歳若い娘を「鉄の処女」で殺しその血を浴びたり、拷問器具で指を切断し苦痛な表情を見て笑ったり、使用人に命じ娘の皮膚を切り裂いたり、性器や膣を取り出し、それを見て興奮しだすなど、性癖異常者だったという。同様の行為を行った人物として18世紀のロシアの貴族ダリヤ・サルトゥイコヴァの名が挙げられる。


地元のルター派の牧師の告発により、役人達は薄々事態に気付いていたが、バートリ家の名誉を考慮し、内密にしていたようである。
しかし貴族の娘に被害が及ぶようになると、ハンガリー王家(ハプスブルク家)でもこの事件が噂され始め、1610年に監禁されていた娘の1人が脱走したことにより、ついに捜査が行われることになった。
城に入った役人達は、多くの残虐行為が行われた死体と衰弱した若干の生存者を発見した。また、城のあちこちに多くの死体が埋められていることも後に明らかになった。

 
【裁判】

19世紀には、エルジェーベトが「鉄の処女」を用いたと喧伝された。
1611年1月の裁判では、生き残りの被害者、被害者の家族の証言が行われ、関連した侍女や召使達は拷問の末、多くの残虐行為を認めた。
証言によると、残虐行為には棒で叩く、鞭打つ等の通常の折檻の他、娘達の皮膚をナイフや針で切り裂いたり、性器や指を切断すると言った行為が含まれ、エルジェーベトの寝台の回りには、流れ落ちた血を吸い込ませるために灰が撒かれていたという。
また、スパイクのついた球形の狭い檻の中に娘達を入れて、身動きするたびに傷つくのを見て楽しむこともあった。
さらに身体の具合が悪いときには、娘達の腕や乳房や顔に噛み付き、その肉を食べたともいう。
同性愛、多淫、黒魔術を行ったなどの証言もあった。

被害者の数は、エルジェーベト本人の記録では650人、裁判で正式に認定されたのが80人だが、ハンガリー王マーチャーシュ2世の手紙によると300人はいると認識されていたようである。

トゥルゾー・ジェルジ伯爵チェイテ城の捜索及びその後の裁判を指揮したのは、エルジェーベトの娘アンナの夫ミクローシュの従兄に当たるハンガリー副王トゥルゾー・ジェルジ(ユライ・トゥルゾー)であった。

1611年1月、トゥルゾーが裁判官を務める裁判所はエルジェーベトの共犯者として従僕を斬首の刑に処し、2人の女中を火刑に処したが、エルジェーベト本人は高貴な家系であるため、裁判は行われず、壁と窓を塗り込めたチェイテ城の自身の寝室に幽閉された。

1614年に、食事の差入れ用の小窓から部屋を覗いた監視係の兵士により死亡が確認された。
彼女の所領は子供達が相続することを許されている。

 
【事件の背景】

一部の資料によれば、1609年にベンデ・ラースロー(Bende László)という名の貴族との再婚を望んだが、彼女の遺産の自分らの取り分を心配する親戚らによって妨害されたという。
この時から彼女に対する誹謗中傷攻撃が始まる。
彼女の従弟でトランシルヴァニア公のバートリ・ガーボル(ガブリエル・バートリ)が彼を失脚させようと謀るウィーン宮廷(ハプスブルク家)の一部の勢力との対立を深めていた。
エルジェーベトが逮捕・告発されたのはガーボルが対ハンガリー戦の準備を進めていた矢先のことである。
最近の推測では、遺産相続人のいないまま未亡人となった彼女は、政治的な理由による思想的な領地裁判の常套手段の犠牲者であり、彼女の反ハプスブルク、親トランシルヴァニア的政策のために幽閉されたものとされる。

当時のハプスブルク家のハンガリー国王マーチャーシュ2世はエルジェーベトの夫に負債があり、その負債を帳消にした上に有力なバートリ一族の権力を抑えるため仕組まれたものであると言う説を、一族、子孫や一部のものが主張している。
確かに加害者の証言は拷問により得られたものであり、エルジェーベト自身は一切の犯行を否認している。
しかし逮捕や取り調べには、バートリ一族の者も加わっている。
権力闘争に係わる思惑により捜査が進められ、証言が誇張された可能性はあるが、事実無根と考える研究者は殆どいない。

同時期に名門エステルハージ家の分家に当たるハンガリー西部の大貴族イレシュハージ家がでっち上げの罪状で所領没収にあっている。
これはオーストリアの宮廷に多額の借款をしていたヘンケル・ラザルスという商人への返済に充てることを狙っての冤罪である。
ハンガリーに一大勢力を持つバートリ家とナーダジュディ家、更に言えば娘の嫁ぎ先でもあるズリーニ家(ズリンスキー家)まで含めた一大スキャンダルに巻き込んでやろうという意図があっても不思議ではない。
ズリーニ家とナーダジュディ家もまたハプスブルク家に対し謀反を企てた容疑で、同じくクロアチアの大貴族フランゲパーン家(フランコパン家)共々当主が処刑されている。
 なお、ナーダジュディ家は後に子孫が軍功を立て貴族として復帰。現在もナーダジュディ財団として健在である。


16~17世紀頃、オスマン帝国とハプスブルク家の2大勢力の狭間にあって、封建領主としての絶対権を強めたマジャール貴族たちは、しばしば団結してハプスブルクによる支配強化に抵抗し、その中でバートリ家は大きな存在感を発揮していた。
 エルジェーベトの伯父のトランシルヴァニア公バートリ・イシュトヴァーンは1575年、ハプスブルク家のマクシミリアン2世を退けてポーランド王位に就き、バルト海から黒海へと至る一大東欧帝国の建設を企てた(この野望はイシュトヴァーンが夭逝し凡庸な弟バートリ・ジグムントが後を継いだため、挫折した)。
バートリ・ジグムントの顧問だったボチカイ・イシュトヴァーンは、1604年、反ハプスブルク派貴族に擁立されて反乱を起こし、1606年のウィーン和約でトランシルヴァニア公国の独立を承認させた。
 17世紀半ばにはエルジェーベトの娘アンナの甥での対オスマン戦争の英雄であったズリーニ・ミクローシュ7世が首謀者となりハンガリー独立を目的とする独立運動(ヴェッシェレーニ陰謀)が起こる。
不幸にしてミクローシュは狩猟中の事故で死亡し、ミクローシュの弟ズリーニ・ペーテル6世(ぺータル6世ズリンスキ)が後を継ぐが、後に発覚し処刑されてしまう。
そのペーテルの娘が女傑ズリーニ・イロナ(イェレナ・ズリンスキー)である。
イロナは、バートリ・ジョーフィアの息子ラーコーツィ・フェレンツ1世の妻となり、後に17世紀後期の反ハプスブルク蜂起の指導者テケイ・イムレと再婚する。
 さらにイロナとフィレンツ1世の息子が、18世紀初頭の反乱軍の将となった英雄ラーコーツィ・フェレンツ2世である。
ハプスブルク家から見ればバートリ家は反逆者の家系でもある。
エルジェーベトの事件の背景には、ハプスブルク家とマジャール貴族層の長年にわたる確執と政治的駆け引きが絡んでいた可能性は考えられる。

 
【吸血鬼伝説】

ある時、粗相をした侍女を折檻したところ、その血がエルジェーベトの手の甲にかかり、血をふき取った後の肌が非常に美しくなったように思えた。
そのことがあってから、若い処女の血液を求め、侍女を始め近隣の領民の娘を片っ端からさらっては生き血を搾り取り、血液がまだ温かいうちに浴槽に満たしてその中に身を浸す、という残虐極まりない行為を繰り返すようになった。
その刑具として「鉄の処女」を作らせ、用いたと言われている。


血が流れることを好んだ、被害者の皮膚をかじって血肉を喰らう行為、淫乱で黒魔術を好み悪魔崇拝をしたという証言から、吸血鬼のイメージが付加されるようになった。
彼女を描いた有名な文学作品にはファーイ・アンドラーシュ著『2人のバートリ・エルジェーベト』(Fáy András:A két Báthori Erzsébet) (1827年)、
シュプカ・G著『呪われた女(Supka Géza:Az átkozott asszony) (1941年)などがある。


シェリダン・レ・ファニュの『カーミラ』(1872年)はエルジェーベトをモデルにしていると言われ、ブラム・ストーカーの恐怖小説「ドラキュラ」もそのイメージを多く採り入れている。

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